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【パヨクの嘘】「南京大虐殺を認めない発言は不勉強」日本兵が中国人を次々と殺害、強姦した 日本軍の戦犯が語った蛮行の実態
禁固刑を受けた旧日本軍の軍人を取材したノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『 昭和陸軍の研究 上 』(朝日文庫)より、一部を抜粋。旧日本軍の中尉だった鵜野晋太郎の証言を紹介する。(全2回の2回目/ 1回目 から続く)
■組織的な残虐行為を放置したことが蛮行を助長した
それぞれが自分の心境を文書に綴ることになり、戦犯たちは懺悔録を書いた。そのなかに、仮名とも漢字ともつかない線を書きつらねている下級兵士がいた。
政治将校からその意味を問われると、下級兵士はいきなり土下座して、「自分は文字を書けないのだ」といって泣きだした。西日本のある山村で、貧農の家に生まれ、小学校に通うこともできなかったと告白を始めた。
「泣くな。泣いてはだめだ。それはおまえのせいではない。社会制度の犠牲者ということではないか」
と政治将校から慰められて、その下級兵士は中国での自らの行為の一部始終を告白しはじめた。放火、略奪、強姦、それこそ数えきれないほどの蛮行を重ねていた。次から次に告白はつづいた。
傍らで聞いていた戦犯たちは、しだいに生気を失い、うつむいたままだった。
「私は国を恨んでいたのです。私は家の働き手でしたが、私が徴兵されたために家族はどうすることもできませんでした。私が徴兵されてまもなく、妹は女郎に売られて家をでていったそうです」
この告白を聞きながら、鵜野は日本軍の蛮行のなかに、日本で下積み生活を余儀なくされていた者が、その憂さ晴らしに、何の統制もなく好き勝手をしたという一面があることを知った。それを将校がまったく制止しなかったところに、日本軍の過ちがあることもわかった。むしろ日本軍はそれを放置しながら、「聖戦」を説きつづけたのである。
中国側は1100人余の大半を起訴猶予にして日本に帰国させた。昭和30年から31年にかけてである。
「中国戦線での蛮行はいくつかあったが、組織だって行われるようになったのは、あの南京大虐殺からです。捕虜を片っぱしから殺す、強姦、放火、略奪、それを日本陸軍のシステムとして行っている。あれはもう論外です。
私は、たしかに戦犯として裁判を受けたし、それに値することを行った。その私からみても、あの南京大虐殺は私も当時くわしく聞いていますが、あまりにもひどすぎる。あれがなかったことだとか、そんなにひどいことをしたわけではないという言い方は、基本的に少しもあの時代と精神構造が変わっていないということだ。
あのとき、南京大虐殺は中国を殲滅したという大ニュースにすりかわっていたわけで、私も胸をおどらせました。あの虐殺を認めたくないといわんばかりの政治家や学者の発言など、日本陸軍の実態を検証していないがための不勉強にすぎない」
銀座の奥まったレストランで、鵜野は長い話を終えると、そう述懐した。
■なぜ昭和陸軍は南京大虐殺を引き起こしたのか
南京大虐殺があったとかなかったとか、そういう論よりも、なぜ日本軍はあれほどの蛮行に走ったのか、それを解明するために日本陸軍の体質、組織原理、そして兵士教育などが徹底的に検証されなければならない。そのために自分は恥を忍んでこうして語っている、と鵜野はいうのであった。
私の手元にいま、2つの資料がある。
1つは、1990年11月19日号の『人民日報(海外版)』である。1989年秋に石原慎太郎代議士(当時)が南京大虐殺を否定的に語った発言に怒りを示した「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の張益錦館長の原稿が載っている。ここで張は、歴史的事実を曲解させることを許さないといって、当時の様子を記述している。
さらに、1984年に調査したところでは、このときまだ1756人の生き証人がいて、彼らからその目撃談を聞くことができたといっている。この紀念館には、日本人の若い世代も訪れ、当時のすさまじい蛮行に改めて驚いているといったエピソードが紹介されている。
もう1つの資料は、台湾の中央研究院の李恩涵研究員(カリフォルニア大学歴史学博士)の石原発言への抗議を認(したた)めた文書だ。具体的に石原発言には根拠がないことを指摘している。
日本軍が南京大虐殺で中国人を生き埋めにする様子
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以下全文はソース先で
文春オンライン 8/10(日) 6:21
https://bunshun.jp/articles/-/81362