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なぜ自分の「得」にもならないのに、他人に親切にできるのか 太古から続く「誰かとつながりたい」感覚 [おっさん友の会★]
突然ですが、犬を散歩させていて、向こう側から別の犬がやってくるときのことをイメージしてみてください。「がるるっ」という一触即発のあの雰囲気、わかりますか? 飼い主も「吠えないでね、吠えないでね」と呪文のように唱えているあの瞬間です。 このように動物たちが顔を合わせて出会うときにはいつでも緊張が高まります。特に捕食─被食関係にあればなおさらです。
それに対して私たち人類は、まったく見知らぬ人と出会っても特に何もしません。ただすれ違うだけです(たまに、オットセイのように「おうおう」とにらみ合って喧嘩したりする人たちもいますが……)。
山登りしているときは、安全確認の意味も含めて、すれ違う人の誰とでも挨拶を交わすだけでなく、その先にぬかるんでいるところがあれば、教えてあげたりもします。これもちょっとしたやさしさの交換です。
私は、些細なことで困っている人に手を差し伸べる行為を「マイクロ・カインドネス(micro-kindness)」と呼んでいます[稲垣諭『「くぐり抜け」の哲学』(講談社、2024)、3─4「マイクロ・カインドネスを信じる」を参照]。文字通りこれは「小さなやさしさ」のことです。
【中略】
もし落とし物をして、その人が気づかないままでいれば、やがて困るかもしれない。そう想像することももちろんできます。
が、そんな想像を働かせる手前で身体がぱっと動き、声をかけて、手を差し伸べてしまう。その瞬間の何気ない動作は、相手を助けたいとか、見返りがほしいとか、自分の利益になるとかの思考とは関係がありません。
それこそ今目の前にいる人と、意識や思考、さらには共感にも先立って、私たちがやさしさでつながろうとしてしまう瞬間です。これは食卓で「そこの醤油取って」と言われて「はいっ」と手渡す、ほんの些細なことでさえそうなのです。
こうした小さな善意たちは、あなたの中にもきっとあるはずです。
AERA 2025/07/12
https://dot.asahi.com/articles/-/260543?page=1
日本に長く居杉てクニの民度忘れてそう。